千と一夜後の物語




 爽やかな青空に、燦々と輝く太陽。これこそまさに文句なしのレガーロ晴れだ。
 窓から差し込む麗らかな陽光は、室内なんかにいないで外においで、と誘っているかのようで。
 フェリチータだって、少し前までなら喜んで街に繰り出しただろう。
 晴れ渡る空の許、陽気な島の人々とおしゃべりをしたり買い物をしたりするのは、休日の楽しみのひとつだった。
 けれども、今は晴れの日のおでかけ以上に大切なものがある。
 何よりも優先すべき、かけがえのない愛しい時間が――。





「ジョーリィ、入るよ」

 軽いノックの後、フェリチータは一声かけてドアを開けた。
 返事を待たずに他人の寝室に入ってしまったが、拒否されることは最初から想定していない。
 なぜならこの部屋の主は、遠慮などいらない、終生の伴侶となる男なのだから。

「今日は良い天気だよ。具合はどう?」

 喋りながらベッドに近づけば、ジョーリィは厄介がることもなく身体を起こしてくれた。
 緩慢な動きながらも手助けなしで起き上がれたのだから、調子は上々のようだ。
 だいぶ体調が回復しているようで、フェリチータはほっと胸を撫で下ろした。

「大丈夫だ」

 お決まりのように返ってくる応えにも、具合の悪さは感じられない。
 チェロの音色のように深みのある声だけ聞けば、健常者と何ら変わりがないように思えるだろう。
 しかしアメジストの双眸には光が宿らず、色素を失った髪は彼が受けた苦痛を物語っている。
 端整な顔はこちらに向いているが、視線が絡むことはない。
 だが口端を持ち上げて意地悪そうな笑みを浮かべているのは、間違いなくフェリチータの大好きなジョーリィだ。

「お嬢様は飽きもせずによく来るな」
「迷惑?」
「いいや、嬉しいよ」

 喉をくつくつと鳴らして笑う姿に、少女もまた眦を下げる。
 こうやって会話を交わすだけで幸せを感じられるのだから、愛する者と共に過ごす時間は何物にも代え難い。
 フェリチータはベッド脇の椅子に腰を下ろし、温かい彼の手を両手で包み込んだ。

「私もジョーリィの傍にいられて嬉しい」

 聡い男のことだ。
 きっと気配でフェリチータの心情は伝わっているのだろうが、素直な気持ちを言葉にして伝えたかった。
 ぎゅっと手を握れば、ジョーリィもまた握り返してくれる。
 たったそれだけのことで愛しさが募り、溢れんばかりの幸福で心が満たされていくようだ。

「今日はお休みだから、ずっと一緒にいられるよ」
「天気が良いんだろう? 君なら外に出たいんじゃないか」
「……」

 ジョーリィの指摘に、フェリチータは思わず口を噤んだ。
 確かに、本音を言えばおでかけすることにも心惹かれてはいる。
 だが優先順位をつければ、間違いなく一番は彼の隣にいることだ。
 ガラス越しの日光はぽかぽかと暖かく、春めいた部屋の中で恋人と一日過ごしたいと願うのも嘘偽りない本心なのだ。

「外に行くよりもジョーリィといたい」
「毎日来ているだろう。たまには気晴らしも必要だと思うが」
「そうだけど……」

 不満げに口籠るフェリチータに、ジョーリィはおかしそうに笑った。
 むっとして睨みつけてやるが、案の定効果はない。
 その理由が、表情を読み取れないからなのか、はたまた彼の厚顔な性格によるものなのかは定かではないが。

「別に追い出したいわけじゃない。ただ、君に何かあれば愚息たちがうるさいからな」

 溜息と共に紡がれた台詞には、ジョーリィお得意の皮肉が含まれている。
 けれども、奥深いところには優しさや気遣いが垣間見えているような気がした。
 フェリチータのことはもちろん、恐らくルカとエルモに対しても。
 もしかしたら本人ですら無意識な発言だったのかもしれない。
 【恋人たち】の能力はなくなってしまったが、以前よりもずっとジョーリィの心が理解できるようになったと思う。
 それが嬉しくて、幸せで。
 幸福に満ちた恋心を教えてくれた彼のためだったら、何だってしてあげたい。

(そうだ)

 少女の頭にぽんっとひとつの考えが浮かんだ。
 愛する人のためにできる、とっておきのサプライズ。
 そして、それを実行するには外に出かけなくてはならない。
 思いついた計画を進めるべく、フェリチータは何気ないふうを装って口を開いた。

「そういえば買いたい物があった」
「ああ、行ってくるといい」

 特に不審がることもなく、ジョーリィはフェリチータの手を握り返していた力を弱めた。
 温もりが離れていくことに寂しさを感じたが、やるべきことをやらなくては。
 最後に彼の手の甲をひと撫でし、座っていた椅子から立ち上がる。

「ジョーリィは何か欲しい物ある?」
「特に思いつかないな。必要になればルカにでも買いに行かせる」
「体調が良くなったら一緒に出かけようね」
「そうだな」

 行ってきます、と言葉を残してフェリチータは部屋を出た。
 凛々しく前を向き、廊下を颯爽と歩く姿は正しく未来のドンナだ。
 けれども、心の中は年相応の恋する乙女で。
 この場にリ・アマンティの力を使える者がいたのなら、フェリチータの思考回路を埋め尽くす男の顔が見えたに違いない。
 【恋人たち】の元宿主は目的を達成するため、欣然と街へ足を向けた。

(ジョーリィの誕生日プレゼントを買いに行こう)



 ◇◇◇



 贈り物をすると決めたはいいが、何を買うかは考えていなかった。
 ジョーリィが好きな物、あげたら喜んでくれる物、一生懸命に頭を捻りながら賑やかなフィオーレ通りを進んでいく。

「カッフェ、チェロ……葉巻は駄目だし」

 いろいろと候補を上げてはみるが、なかなかピンとくるものが思いつかない。
 何せ、初めて祝う彼の誕生日だ。
 昨年の今頃はファミリーに入ったばかりの新人で、右も左もわからない状態だった。
 『大アルカナを調査せよ』という指令を伝えられた時の自分に、相談役の恋人になる、と教えたとしても絶対に信じないに違いない。
 今では、ジョーリィのことを考えない日はないというのに。

(この一年で随分変わった)

 決して良いことばかりだったわけではない。
 しかし様々な困難を乗り越えて大きく成長した経験は、フェリチータの人生にとって貴重なものになるだろう。
 過去と現在、そして未来について想いを馳せながら歩いていると、一軒の由緒ありげな店が視界に入り、足を止めた。

「古書店……」

 流行の店の間で取り残されたように看板を構える本屋は、数ヵ月前にジョーリィの研究資材の買い出しに付き合って一回だけ訪れたことがあった。
 絶版になった書物や貴重な史料が見つかることもある、と話していた彼の顔が珍しく上機嫌だったのを今でも覚えている。
 ファミリーでも一二を争うほど、ジョーリィは読書家だ。
 錬金部屋には数え切れないくらいたくさんの書籍が所蔵されている。
 そのほとんどが錬金術に関する本なので、フェリチータの興味を引くことはなかったが、錬金術師にとっては垂涎ものなのだろう。
 アッシュが蔵書の閲覧許可欲しさに、虎化した指を対価として差し出すかどうか本気で悩んでいたくらいだ。
 フェリチータも読書はするが、ジョーリィの本好きには到底及ばない。
 そこまで考えて、衝撃の事実に思い至った。

「ジョーリィ、もう本を読めないんだ……」

 目が見えなくなれば、識字能力も失われるのは当然のこと。
 彼が背負う制裁の重さを改めて気づかされ、ショックのあまり眩暈がしそうだった。
 もしもフェリチータがこれから一生、本も読めず、世界の美しさを目の当たりにすることも、恋人の顔を見ることも叶わなくなってしまったら。

(……つらい)

 想像しただけで悲しくて、胸が苦しくなる。
 だが当の本人であるジョーリィはフェリチータの隣で生きて、笑っている。
 そして彼の視力を取り戻そうと、ルカやエルモ、アッシュまでもが日夜研究を進めているのだ。
 みんなが頑張っている中で、フェリチータが悲観になるわけにはいかない。
 気合を入れるように自分の頬を両手でぺちぺちと叩き、挑むような強い目線を古書店へ向けた。

「何か、役に立つ文献が見つかるかもしれない……!」

 ジョーリィを助けられる可能性が僅かでもあるのならば、捜さずにはいられない。
 翡翠の瞳を固い意志で滾らせ、フェリチータは重厚な扉のドアノブに手をかけた。



 ◇◇◇



 ジョーリィの誕生日当日は、運悪く剣の仕事が立て込んでしまった。
 可能な限り早く、そして着実に任務をこなし、彼の許へ帰れたのはとっぷり日が暮れた頃。
 フェリチータは執務室から一度自室へ戻り、先日購入したプレゼントを抱えてジョーリィの寝室を目指した。
 気持ちは焦るが、手に持った品が機敏な動きの邪魔をする。
 ようやく目的の部屋の前に辿り着いた時には、高鳴る胸の鼓動を抑えるために深呼吸をしなければならなかった。

「遅くなってごめんね」

 ノックもそこそこに、フェリチータは寝室のドアを開ける。
 もしかしたら眠ってしまったかもしれないと危惧していたが、ジョーリィは上体をベッドヘッドに預け、少女を出迎えるように微笑んでいた。

「起きてたの?」
「今朝、仕事に行く前の君が言ったんだろう。必ず行くから起きていろと」

 待っていたよ、と優しく囁く素直なジョーリィなんて滅多に見られるものではない。
 持ってきたプレゼントは一先ずサイドテーブルに置き、身軽になったフェリチータは恋人の胸に飛び込んだ。

「誕生日おめでとう、ジョーリィ!」
「ありがとう、フェリチータ」

 喜びを分かち合うように、唇を重ねてキスをする。
 最初は啄むような軽いものだったが、徐々に舌が口腔に忍び込み、唾液を交換するような熱烈な口づけに変わっていく。
 しかし嫌な気はちっともせず、フェリチータの方も夢中で彼の舌に自分のを絡ませた。

「は、ぁ……ジョーリィ……っ」
「……フェル……」

 二人の間を銀糸が伝い、切れる。
 熱くて甘い空気に花嫁がクスクスと笑えば、今日の主役もまた含みのない笑顔を浮かべた。
 最後にちゅっと音を立てて頬にキスを落とし、フェリチータは一旦ベッドから降りて、サイドテーブルに置いていた贈り物を慎重に抱え上げる。

「プレゼントなんだけど、ちょっと重いから気をつけてね」

 そっとジョーリィの膝に乗せられたのは、横長の四角い箱。
 結構な重量があり、ずっと膝の上に置いていたら足が痺れてしまいそうだ。
 ジョーリィが手探りでリボンを解いて包装紙を剥がすと、長い指が固い紙の感覚を捉えた。

「本、だな」
「そうだよ」
「ケースに入って何冊も……全集か?」

 箱から無作為に一冊引き抜き、掌で表紙を撫でる。
 刺繍細工のある装丁は質感が良く、手の込んだ造りであることは容易に想像がつく。
 図鑑か、それにしては本自体の厚みが足りない――とジョーリィが思考を巡らせれば、少女の楽しそうな声が耳朶を打った。

「ジョーリィは千夜一夜物語って知ってる?」
「異国の民話の説話集だということは知っているが、読んだことはない」

 彼の答えを聞いて、やっぱり、とフェリチータは納得した。
 何しろ錬金部屋にあるのは難しい専門書や事典ばかりで、大衆向けとは程遠い本ばかりなのだ。
 たった数冊ある小説はエルモの情操教育のために買い与えた物であって、ジョーリィ自身が読むことはなかっただろう。
 物知りな錬金術師は決定的に一般常識が欠けている。

「フェルは『千夜一夜物語』をくれたのか」
「うん!」

 花が綻ぶような笑顔で大きく頷き、数日前のことを思い出す。
 古書店で目当ての文献を発見することはできなかったが、代わりに思いついたのはジョーリィへの特別な贈り物。
 若い娘が王様に語り聞かせた話を集めたという典籍を見つけた時、閃いた。
 文字を読めなくなってしまっても、本を楽しむことはできる。
 ――フェリチータが代わりに読むことによって。

「これから毎晩読み聞かせてあげるね」
「千一夜もか? 二年以上かかるな」

 呆れたように言われてしまったが、その口調は表層的なものだとわかっているので気にしない。
 フェリチータは抜き取られた一冊をケースに戻し、恋人の膝を占領していた本たちをサイドテーブルに退かした。
 けれどもジョーリィの足が解放されたのは数秒のことで、次に彼が腿に感じた重みは、本よりもずっと温かい唯一無二の存在。

「これからずっと一緒にいるんだから、二年なんてあっという間だよ」

 膝に跨り甘えてくる少女の髪をジョーリィが撫でると、柔らかい匂いが鼻孔をくすぐる。
 無防備に男の身体の上に乗ってくるのは感心しないが、今は些細なことだ。
 細い腰に腕を回せば、身を擦り寄せてくるのがいじらしくて、愛おしい。
 二年でも三年でも、それこそ千年経っても、この腕の中の幸福は決して手放す気にはなれない。

「私が読み終わる頃には、きっとルカたちが特効薬を完成させてるよ。そしたら今度は、ジョーリィが私に読み聞かせて?」

 鈴の音のように心地良い声は、明るい未来に導く光だ。見えずとも、視覚以外に感じる術はいくらでもある。
 ジョーリィは抱きしめる腕に力を込めてフェリチータを引き寄せ、赤い頭を肩口に埋めさせた。
 息がかかるほど近づいた小さな耳に、意地悪な男はそっと睦言を吹き込ませる。

「……その時には、読み聞かせる相手が増えているかもしれないな」
「え……っ」

 フェリチータが驚いて言葉に詰まった隙を突き、有無を言わせない勢いで唇を塞いだ。
 上と下を順番に喰み、薄く開いた口内に舌を分け入らせる。
 吐息ごと飲み込むようなキスは、どんな言葉よりも甘美な祝詞だ。

「んっ……ふぁ」

 フェリチータが酸素を求めて唇を離すと、二人の身体の間に僅かに生まれた隙間にジョーリィの手が差し込まれる。
 コルセットベルトの上から少女の腹部を撫で上げる動きは、淫らでありながらもどこか神聖さを孕んだ仕種で、フェリチータの頬に薔薇色を付け加えた。

「愛しているよ、フェリチータ」
「私も、ジョーリィのこと愛してる」

 しばしみつめあい、どちらからともなく再び唇を重ねて瞳を閉じる。
 二人の瞼の裏には、闇ではなく、共に歩む未来が映っていた。





fine.




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