両手いっぱいの独占欲
厳しい寒さが去り、レガーロ島の花々も綻んで春めいて来たある日の事。
フェリチータが目を覚ますと、部屋は黄色の花で埋め尽くされていた。
テーブルやドレッサーの上は勿論、床にまでたくさんの花束が飾られており、まるで黄色いカーペットが敷かれているかのようだ。
驚いて目を擦っていると、
「おはようございます、お嬢様」
ルカが朝の挨拶と共に部屋に入って来た。
彼も黄色の花を手にしている。
「おはよう。
……この花は何?」
すっかり眠気の吹き飛んだ顔つきで尋ねた。
「ふふっ、驚かれましたか?」
右手を顎に添え、嬉しそうに笑う従者。
「今日はフェスタ・デラ・ドンナです。
男性が日頃の感謝の気持ちを込めて、女性に黄色のミモザの花を贈る日なんですよ」
これは私からです、と渡されたミモザはピンクのリボンでラッピングされていた。
「ファミリーの皆さんがお嬢様にミモザを贈りますので。
私からだと分かるようにリボンを付けました」
確かに辺り一面が黄色に囲まれており、どの花束が誰から贈られた物か、よく見ないと分からない。
薄桃色のリボンは大量のミモザの中でも目を引き、それでいて主張しすぎる事もなく綺麗に映えていた。
「3月8日は年に1度の女性の為の日ですからね。
お嬢様も今日くらいは仕事を忘れてお出かけなさったらいかがですか?」
「いいの?」
突然の休暇を与えられ、びっくりするフェリチータ。
「ええ、勿論です。
メイド・トリアーデやマーサも休日ですからお嬢様も休んでください」
パーパも了承済みです、とルカは朗らかに告げる。
カーテンが開けられ、部屋に差し込む朝日が眩しい。
「こんなに気持ちのいいレガーロ晴れなんですから!
思い切り羽を伸ばして来てください」
支度を済ませ、ルカに見送られながらフェリチータは自室を出た。
しかし特別することも無いので、巡回も兼ねて館内を歩き回る。
すると、ファミリーの男性とすれ違う度にミモザを贈られた。
大アルカナたちだけではなく、以前フェリチータが所属していた剣のセリエ、聖杯に金貨、棍棒、そして諜報部の人からも。
少し歩いただけなのに、フェリチータは両腕いっぱいにミモザのブーケを抱える事となった。
花を貰えるのは嬉しいが、手が塞がってしまって若干の不便さを感じる。
案の定、別の棟に続く扉の前で立ち往生する羽目になってしまった。
「おはよう、お嬢様」
どれくらいの力加減なら壊さないでドアを蹴り開けられるか、と考えていたフェリチータは、呼びかけられた声に振り返る。
「おはよう、ジョーリィ」
後ろから歩いて来たのはアルカナ・ファミリアの相談役であり、恋人でもあるジョーリィだ。
彼がミモザを持っていない事に気付き、これ以上手持ちが増えない事への安心感と同時に恋人から花を貰えない落胆で、落ち着かない心地になった。
そんな複雑な乙女心など知らない咥え煙草の男は、悠々とした足取りで近づいて来る。
手が離せなくて右往左往するフェリチータと、それを見て面白がるジョーリィ。
何処か懐かしさを覚える光景だ。
どうやらジョーリィも同じ事を考えていたらしく、おかしそうに肩を揺らす。
「君が組織に入ったばかりの頃、似たような事があったな」
「うん」
1年以上前の出来事だが、フェリチータは昨日の事のように思い出せた。
ファミリーに属して初めての指令、大アルカナの調査中の日の事。
当時はミモザの代わりに、食べ物が山と積まれたトレイを手にしていた。
モンドとスミレと一緒に摂ろうと朝食を運んでいたら、今と同じようにドアが開けられず困った事態に陥ったのだ。
通りかかったジョーリィはすぐに手を貸そうとはせず、一通りフェリチータをからかった後、ようやくドアを開けた。
去り際に助言を与えてくれた事には驚いたが、彼の胡散臭さで素直には喜べなかった事も懐かしい思い出だ。
「あの時はお嬢様とこんな関係が築けるとは、この私でも全く予想しなかったね」
喉の奥を鳴らしてジョーリィが笑う。
フェリチータだって、目の前に立つ得体の知れない雰囲気を持つ男が恋人になるとは夢にも思っていなかった。
ふわりと笑いかけるが、何故か冷笑を返される。
不審に思い視線で問いかけると、存外に不機嫌な語気の言葉が発せられた。
「お嬢様とは随分親睦を深められたのだと自覚していたのだが……。
どうやら私は自惚れていたようだ」
「……え?」
訳が分からずフェリチータは訝しげにジョーリィを見上げる。
続く声は明らかに棘を含んでいた。
「今日が何月何日か分かるか?」
「3月8日……あ!」
そこでようやく意識が向いた。
フェスタ・デラ・ドンナのミモザ騒ぎですっかり失念していたのだが、
「ジョーリィの……誕生日」
眼前の男が生まれた日だ。
以前フェリチータがしつこく尋ね、たっぷりの皮肉と共に教えてくれた大切な記念日。
「思い出してくれて光栄だね」
葉巻を咥えた口許が歪む。
「……ごめんなさい、忘れてた」
自分の失態を恥じ、フェリチータは頭を下げた。
けれども、この程度の謝罪でジョーリィの怒りが収まるとは考えにくい。
「何か欲しい物ある?」
せめてプレゼントをと、希望の品を訊く。
「では、君が今日貰ったミモザの花を全て戴こうか」
恋人が欲したのは、フェリチータに贈られた黄色の花束。
人から貰った物を別の人にあげる事は不誠実に思え、返事に窮した。
困惑するフェリチータを見遣るジョーリィは非常に不愉快そうだ。
「ファミリー中の男から贈られたのだろう?
それだけの量があれば、カクテルの着色材料には当分困らないな」
横を向き、葉巻をふかしている姿は怒っているというよりも……
「……拗ねてる?」
何処か子どもっぽく見える仕種に、フェリチータの口から言葉が漏れる。
組織のナンバー2が、自分の恋人に別の男がプレゼントをしただけで嫉妬するなど、以前なら有り得ない事だ。
しかし付き合うようになってからというもの、ジョーリィは人間らしい感情を持ち、表現するようになっていた。
大切にされている事を実感する日々に、フェリチータは愛しさが込み上げる。
「拗ねるという幼稚な行動を私が取ると思うのか?」
ジョーリィが不機嫌そうに眉を顰めた。
苛立ちを帯びた声に普段であれば多少たじろぐのだが、今はそれすらも可愛く思える。
フェリチータは柔らかく微笑んだ。
「……ふん」
どうやら相談役の溜飲は下がっていないらしい。
どうしたものか、とフェリチータは思案し、ひとつの行為を思い付く。
「ジョーリィ」
愛しい名前を口にする。
渋々ながらもこちらを向く恋人。
フェリチータは爪先立ちになり、顔を寄せた。
頬に軽く口付け、すぐに離れる。
「誕生日おめでとう」
恥ずかしくて足許を見つめながら祝辞を述べた。
高鳴る心臓の音がうるさい。
場の空気に耐えられず、ぎゅっと両目を瞑った。
「……フェル」
彼しか使わない愛称で呼ばれ、おずおずと顔を上げる。
黒い手袋をはめた手に髪を梳かれ、長い指に頤が捉えられた。
そして当然のようにキスが降らされる。
「ふぅ……、ん」
初めは唇が触れ合うだけだったが、徐々にジョーリィの舌が侵入してきた。
2人分の唾液が混じる。
口内を隅々まで貪られる感覚に、フェリチータは全身の力が抜けてしまう。
よろけそうになる身体がジョーリィに抱きとめられた。
サングラスはいつの間にか外されており、スティグマータのある瞳が情熱的に見つめている。
「祝われるのも悪くないな」
満足そうな口調に、フェリチータの心も暖かくなった。
しかし、ふと気になり訊いてみる。
「悪くないって……今まで祝ってもらった事、無いの?」
「ああ、初めてだ」
さらりと告げられた事実に驚きを隠せない。
だが冷静に考えれば分かる事であった。
人との接触を好まない男が態々自分の誕生日を誰かに教えるとは思えないし、知りたがる者も皆無に違いない。
唯一知っていそうなモンドは生粋のレガーロ男だ。
フェスタ・デラ・ドンナの日は女性に愛を囁く事で忙しいだろう。
胸が痛んだフェリチータはジョーリィを見つめ返した。
「これからは私が毎年お祝いする」
意気込んだ台詞に、紫の双眼が大きく見開かれる。
けれどもそれは一瞬で、ジョーリィはすぐにいつも通りの人を食ったような笑みを浮かべた。
「記憶力の乏しい君に出来るのか?」
今年の誕生日を忘れていた事を暗に指摘され、フェリチータは言葉に詰まる。
言い返せず俯く頭に、思いがけない言葉が落とされた。
「花以外に、もうひとつ欲しい物がある」
フェリチータは挽回の機会を与えられたように感じ、期待から急き込んで尋ねる。
「何が欲しいの?
私に出来る事なら何でもする!」
口にした途端、後悔の念に襲われた。
ジョーリィが明らかに『企んでいます』と言わんばかりの表情になったからだ。
「ほう……何でも、か」
悔いても取り返しはつかない。
フェリチータは覚悟を決めて頷いた。
「クックッ……流石だ」
ジョーリィは口角を上げ、フェリチータの耳許で囁く。
「……俺の部屋に来い、フェル」
甘く響く声とは裏腹に、一切の反論を許さない強い口調。
フェリチータは観念し、抱えていたミモザを半分ジョーリィに渡す。
空いた片手を重ね合わせ、しっかりと互いの指を絡ませて、歩きだした。
fine.