距離・前
「ま、待っ……ぇ……ふァ」
「……フェル」
レガーロ晴れの陽光が降り注ぐ明るい廊下で、情熱的な口付けが交わされる。
誰に見られるかも分からない場所での行為に、フェリチータは嬉しくもあり、呆れてもいた。
もう何度目だろうか。
デビトに見つかり、パーチェに覗かれ、ルカに絶叫される。
キスは好き。
でも恥ずかしい。
人前ではやめて欲しいと頼んでも、ジョーリィは聞く耳を持たない。
それどころか回数は日に日に増していき、両手の指の本数を超えた時点で、フェリチータは数えるのを放棄した。
突っ撥ねようと努力もしたのだが、今のところ敵わずじまい。
任務を理由に断れば『早く終わらせないお嬢様が悪い』と責められる。
所用があると言うと『私の用件が最優先だ』と不機嫌になる。
ルカとの約束を口にした日には、肩の上に無理矢理担ぎ上げられ、厨房へ強制連行された。
何事かと思えば、リモーネパイを作る従者の前で降ろされ、唇を塞がれる。
『態々見せ付けに来たんですか!』と三十路前の男が本気で泣き喚いた為、館内は一時騒然となった。
その時の事を思い出したフェリチータは、眼前の恋人を鋭く見つめる。
――やめなきゃ。
流されてはいけない。
翻弄されっぱなしのままでは、いつまで経っても子ども扱いされるだけ。
なけなしの理性を掻き集め、ジョーリィを両腕で突き飛ばした。
「……駄目」
渾身の力を込めた筈なのに、互いの身体は僅かしか離れない。
中止を求める声は、自分でも驚く程に弱々しかった。
「まだ、仕事が残ってる」
青いシャツに置いた手を下げて、俯く。
自分からキスをやめたのに、何故か悲しい。
複雑な乙女心と、恋人の機嫌を損ねた事を自覚し、気が重かった。
これから降らされるであろう厭味を覚悟して、つい目を瞑る。
しかし。
「ならば仕方ない」
「え?」
予想とはまるで異なる台詞が聞こえ、思わず声を上げてしまう。
まじまじと見返すが、相談役の男は新しい葉巻に火を点けているだけだ。
一口吸い、口角を笑いの形に持ち上げていた。
「ドンナが職務を怠ってはいけないな。
早く執務室に戻るがいい」
フェリチータが呆然とする中、悠々とした足取りで立ち去るジョーリィ。
有り得ない、と叫びたくなる声を何とか抑え込む。
いつもなら散々と皮肉を浴びせられるのに、こうもあっさり引き下がるなんて。
ぼうっと後ろ姿を眺めながら、焦燥感が胸中を覆う。
――突き飛ばした事、怒ったのかな……?
だが、そんな自分の考えは間違っているとすぐに否定する。
腹を立てている時の彼は一目瞭然だ。
決して近寄れない雰囲気で、ジョーリィ自身も誰かに話しかけようとはしない。
突き飛ばした後に言葉を交わしたし、メスを投げ付けて来るような危険な空気を纏ってもいなかった。
悶々と悩むフェリチータは、取り敢えず執務室に向かう。
頭をフル回転させながら扉の前まで歩いて、ようやく結論を出した。
「もしかして……飽きられた?」
***
ジョーリィに愛想を尽かされたのかもしれない、という悩みは、瞬く間にフェリチータの脳内を埋め尽くした。
報告書を確認しても、サインや署名をしても、思い浮かぶのは恋人の事。
書き損じを咎める組織のナンバー2は今、隣にいない。
常に錬金部屋に籠っている為、普段からフェリチータの執務室にいる事の方が少ないのだが、先程のやり取りで悪い方へと思考が進む。
――子どもっぽいと思われたよね……。
恋人同士なのだからキスをするのは当然なのに、恥ずかしくて突き飛ばすなんて、幼稚すぎる。
恋愛経験のないフェリチータは、初恋の相手の振る舞いに狼狽えるばかりだ。
しかも、ジョーリィは自分よりずっと年上の男性である。
恐らくキス以上の事も望んでいる筈……と想像するだけで顔が火照ってしまう。
大きく溜息をつき、項垂れる。
ペンを机に置く音が、やけに響いた気がした。
子ども扱いは嫌。
早く大人になって対等に肩を並べたい。
「ジョーリィは大人なんだから、私が成長しなくちゃ」
そう決心したフェリチータの耳がノックの音を捉えた。
どうぞ、と入室を許可すると、小柄な少年が姿を見せる。
聖杯の幹部、ノヴァだ。
「書類を提出しに来た」
必要最低限の事だけを話す従兄弟から、数枚の用紙を受け取った。
ざっと目を通して不備がない事を確認する。
生真面目な性格の彼らしく、丁寧に書かれた文字がびっしりと紙面を埋めていた。
「お疲れ様」
労いの言葉で笑いかけるが、何故かノヴァの表情は硬い。
眉を顰めると、剣呑な目付きが返ってきた。
「思い詰めた顔をしているが、何かあったのか」
「!」
悩みがある事を言い当てられ、愕然とする。
【恋人たち】の能力は誰でも使えてしまうのではないか。
そんな考えが頭を過ぎる。
簡単に内心を見透かされてしまう自分の情けなさに益々落ち込むが、くよくよしても解決しない。
意を決し、フェリチータは口を開いた。
「実は……」
ジョーリィに飽きられたかもしれないと相談すると、ノヴァは暫し呆気にとられていた。
まさか、ドンナの心痛が恋人の事だとは思いもよらなかったらしい。
仕事中に私事を持ち込むとは公私混同甚だしい、と怒ったが、結局は一緒に解決策を考えてくれる。
不器用だが、ちゃんと伝わるノヴァの親切がフェリチータには嬉しかった。
「豊富な話題が必要じゃないか?」
「話題?」
「ああ、ジョーリィは錬金術の研究者だ。
様々な角度から知性ある話題を提供すれば、飽きる事はないと思うが」
読書家からの的確な意見に、大きく頷く。
解決の糸口を掴めたような気がして、強張っていた身体から自然と緊張が解けた。
「何を話したらいいかな?」
「そうだな……これはどうだ」
ノヴァが小脇に抱えていた、厚みのある本を差し出す。
重量感のある表紙には、『シュレーディンガーの猫に関する考察』と題されていた。
「言っておくが、猫の成長記録ではないからな」
「違うの?」
てっきり、シュレーディンガーという人物の飼い猫の話かと思ったフェリチータは首を傾げる。
ノヴァは青い髪を右手で抑え、苛立たしげに呟いた。
「量子力学書だ。
……僕にも理解出来なかった」
悔しそうにしているが、フェリチータにはそもそも『量子力学』という言葉すら初めて聞くものだ。
難解そうな書籍は見ただけで読む気を失い、眠気を誘う。
だが、折角提供してくれた話題の切欠を断るのも悪いと考え、両腕でしっかりと抱きかかえた。
「ありがとう、読んでみるね」
「ああ」
ノヴァの退室後、早速ページを捲ってみる。
フェリチータの頭が鈍い痛みを発するのに、さほど時間はかからなかった。
一瞥しただけでも知らない単語が数多く並び、目次さえ読み進められない。
以前、ジョーリィから聞いた『ホイヘンス=フレネルの原理』を思い出す。
あれもフェリチータにとっては、全く理解の及ばない学問であった。
――ジョーリィの傍にいるには、こんな難しい事を覚えなくちゃいけないの?
若干の眩暈を覚えながらも、恋人の姿を頭に思い浮かべて気を取り直す。
大切な人の為なら何だってする、と胸の内で意気込んだ。
「頑張ろう」
誰もいない執務室で独り言ち、分厚い学術書に向き直った。
***
「お腹空いたー」
午後6時10分。
大アルカナたちが集う食堂で、幹部長代理が空腹を訴えた。
「パーチェ、テメェ何度言えば気が済むんだ!」
数分の間に同じ台詞を数え切れない程聞かされ、機嫌最悪な金貨の幹部は幼馴染を罵る。
けれども、この場において不満を持ち合わせているのはデビトとパーチェに限らなかった。
「でも腹減ったよなー。
何で来ないんだ?」
ひとつだけ空いた椅子に目を遣り、リベルタが唇を尖らす。
その席は、外交で不在がちな幹部長の物でも、食事より実験を優先する相談役の物でもない。
フェリチータの席だ。
今まで、夕食会に無断で遅刻や欠席をした事のない彼女が、何故か定刻を過ぎても現れない。
「先に食べて……」
「駄目です」
ノヴァの発言を、ルカが即刻却下する。
帽子の下から鋭い眼光を覗かせた。
「お嬢様が来るまで待ちましょう」
常日頃の柔和な笑みから一変、『お嬢様』に関する事柄は絶対に譲歩しない。
横暴とも思える言動は、まさに父親譲りだろう。
その父親はといえば、食事直前にも関わらず、相変わらず葉巻を燻らせている。
以前であれば、皆と揃って食事をするなど絶無に等しかったのだが、デュエロを経てドンナとなったフェリチータに『夕食会に出席して』と命じられたのだ。
それ故に、渋々ながらも毎晩用意された食堂の自席に座るようになっていた。
だが、今夜は。
「そういえば、剣の奴らがお嬢さんの執務室に入るのを見たぞ」
ぴりぴりとした空気を破るように、ダンテが声を上げる。
記憶を手繰り寄せながら話す幹部長に、全員の注意が集まった。
「俺が食堂に向かう時だったか。
もしかしたら、そいつらと外へ食事に行ったのかもな」
「だったら待っててもしょうがねーじゃん!
オレ、腹減って死にそう!」
もう我慢出来ないとばかりに、リベルタはナイフとフォークを握る。
ノヴァも同意するように、グラスを持ち上げた。
「これ以上は待てない」
青く冷たい目が、ルカに凄む。
続いて、デビト、パーチェ、ダンテの視線を浴びて、とうとうヘタレな青年は折れた。
「……分かりましたよ。
お嬢様には申し訳ないですが、先に食べましょう」
「いっただきまーす!」
従者の嘆きが終わらない内に、パーチェの掛け声が被さる。
それを合図に、各々がグラスやカトラリーを手に取った。
ルカも溜息を吐き、食事を開始しようとしたが。
「どうしました?」
斜め向こうに座るジョーリィが食べ始めないのを見て、眉間に皺を寄せる。
未だ葉巻を咥えたままの男は、周りの注目を集める事も全く意に介さず、席を立った。
「急用を思い出したものでな。
私は失礼させてもらおう」
そのまま食堂の出入口へ足を向け、何も飲食する事なく去ってしまう。
後に残された者たちは、きょろきょろとお互いを見交わした。
「いきなりどうしたんだ?」
「本当に勝手な奴だ」
「ジジイなんてほっときゃいいんだよ」
「ジョーリィの分、おれが食べていい?」
「お嬢様の分にまで手を出さないでください!」
「さっさと食べて仕事に戻らんとな」
トップ2人が欠席の夕食会は、いつものように騒がしく、しかし何処か殺伐とした雰囲気で再開した。
***
誰もがテーブルを囲んで楽しく過ごす時間に、ジョーリィはひっそりとした廊下を進む。
目的地は、ドンナの執務室。
先程のダンテの台詞が引っ掛かり、夕食どころではなかった。
フェリチータが他の男と食事をするなど、考えただけで腹立たしい。
胸の奥で荒ぶる、どす黒く澱んだ感情を持て余しながら、自然と早足になる。
もし本当に彼女が剣の構成員と出掛けたのなら、執務室へ向かっても徒労に終わるだけだ。
ジョーリィ自身も十分承知している。
それでも、じっとしている事なんて出来なかった。
「困ったものだ……」
つい零れた言葉は、フェリチータにか、それとも自分にか。
呟いた事すら気付かず、ただひたすらに脚を動かした。
扉の前に立ったジョーリィは、軽くノックを繰り返す。
けれども何度叩こうが応答は得られず、入室の許しがないままにドアノブを回した。
最初に視界に入ったのは、デスクに突っ伏す赤い頭。
両腕を枕にして、気持ち良さそうに寝息を立てている。
規則正しい呼吸音を聞きながら、ほっとしている自分がいる事を自覚し、自嘲気味に笑った。
無意識に気配を殺し、フェリチータに近付く。
飼い主と同じように、パーチで休んでいたフクロータが目を覚まし、侵入者を咎めるように一声鳴いた。
鋭い眼差しを送って猛禽類を黙らせたジョーリィは、小さな恋人を見下ろす。
燃えるような色の髪を梳いて口付けると、フェリチータの意識は夢の中から引き戻された。
「ジョー……リィ?」
「お目覚めかな」
「今、何時……?」
眠そうな彼女の質問には答えず、ジョーリィは薄く開いた桜色の唇に己のを重ねる。
最初は啄むように、段々と舌を差し込んでいった。
「ん、ふ……ぅう」
脳が覚醒しきっていない彼女は嫌がる事もなく、すんなりとキスを受け入れている。
唾液が混ざり合い、口端から滴り落ちる瞬間。
「あっ」
小さな悲鳴を上げ、フェリチータが慌てて顔を離す。
面食らうジョーリィを尻目に、机に置かれた本を大事そうに引き出しへ仕舞い込んだ。
「ほう……。
君は私よりも本が大切らしい」
刺々しい冷徹な語調。
一瞬だけ怯むも、フェリチータは急いで首を左右に振り、否定の意思を示した。
「この本、借り物なの……!」
だから汚さないように扱うのは当然。
そう言を継ごうとした口が、有無を言わさず再び塞がれる。
「……ン、はぁ……ッ」
先程よりもずっと荒々しいキスに、フェリチータはまごついた。
口内を蹂躙するような舌の動きに翻弄され、主導権を握られる。
朝の廊下でのやり取りと同じ展開に、頭の中で警鐘が鳴った。
――成長するって決めたのに!
進歩のない自分に嫌気が差す。
気持ちを立て直し、ジョーリィから距離を取ろうとしたが、後頭部に添えられた手がそれを許してくれない。
寧ろ強く押し付けられ、一層深く口付けられた。
「あゥ……いや……ん」
「は……っ、フェル……」
ようやく離れたジョーリィを非難めいた目で見遣る。
ところが、思いがけず紫の瞳が憂いを帯びており、フェリチータは小さく息を呑んだ。
「ジョーリィ……?」
呼びかけには応じず、彼はすっと机から遠ざかってしまう。
「食堂に行くといい。
皆が君を待っている」
そのまま振り向く事もなく、執務室を出て行ってしまった。
取り残された寂寥感に、フェリチータはじわじわと息苦しくなる。
掴み所のない不安と恐怖に襲われ、胸の上に手を置いて、ぐっと握った。
***
その後、フェリチータは食堂に向かうも、ジョーリィの姿はなかった。
いつものように明るく振舞おうとしたが、言いようのない不安感は消えてくれない。
結局、食事がまともに喉を通らず、半分以上残してしまった料理をパーチェに譲った。
鬱陶しい程に心配するルカを何とかやり過ごし、早めに自室に戻る。
お風呂に入っても、ゆったりと寛ごうとしても、気分は晴れない。
――誰かと話したい。
フェリチータの脳裏に、真っ先にスミレの姿が浮かんだ。
思い立ったら即行動、とばかりに寝間着にガウンを羽織り、部屋を出る。
シン、と静まり返った廊下に響く自分の足音が異様に大きく聞こえ、耳障りだった。
急ぎ足でスミレの部屋まで進み、その勢いのまま扉を叩く。
「入りなさい」
ドア越しの声ですら、本当に安心する。
フェリチータは戸を開き、するりと身体を滑り込ませた。
「いらっしゃい、フェリチータ」
「マンマ……」
全てを包み込んでくれるような、優しい微笑み。
部屋に入っただけなのに、慰められた気分になる。
「今、お茶を淹れるわ」
突然の来訪にも関わらず、スミレは驚いた様子もない。
差し出されたカップに口を付けると、茶葉の香りが広がり、気持ちが和らいだ。
「どうしたのかしら?」
慈愛に満ちた瞳は、娘であるフェリチータから見ても美しく、モンドが一目惚れしたのも頷ける。
コトン、とカップを一旦テーブルに置き、深呼吸して腹を据えた。
「ジョーリィの事なの」
「そう」
小さく返される相槌に、スミレがこの話題を予測していた事が伺える。
ならば躊躇っても仕方ない、とフェリチータは急き込んで喋った。
「早く大人になってジョーリィに追い付きたいの!
なのに上手くいかなくて……すごく怖くて……!」
考えを整理して話す事さえままならず、焦りと不安で胸が張り裂けそうだ。
感情をぶちまけるように吐き出された言葉は、漠然とした恐怖を煽るだけ。
怯えるフェリチータへ、スミレは穏やかに声をかける。
「何が怖いのかしら?」
単純な問い。
だが咄嗟に答える事が出来ず、口を噤んだ。
スミレは優雅に笑み、言の葉を紡ぐ。
「ジョーリィの心が離れてしまう事?
でもそれは、あなたの杞憂かもしれない」
温もりのある声が、じんわりと全身に染み渡る。
早鐘のようだった心臓が落ち着きを取り戻していった。
「言葉にしなくては分からないこともあるわ。
通じ合っていないのならば、自分から伝えなくちゃ」
漆黒の瞳がフェリチータを諭す。
厳しくも愛情の込められた助言は、正しく母親のものだ。
「ありがとう、マンマ」
残りのお茶を喉に流し込んで、フェリチータは勢い良く立ち上がる。
アドバイスは貰った。
あとは行動あるのみだ。
「ジョーリィと話して来る」
「それでこそ私の娘よ」
部屋に入った時とは打って変わり、晴れやかな表情の愛娘を見て、目を細めるスミレ。
けれども、どことなく寂しそうな笑みを浮かべていた事に、フェリチータは気付かなかった。
赤い毛先が完全に視界から外れ、占い師は長い息をつく。
「成長するのが寂しいなんて……私も年かしら」
夢見がちな幼子だったのに、今では強い女の子に育った我が子。
それも全て、大切な人の為。
「モンドが知ったら妬くわね」
大人げないところのある夫を思い浮かべ、やれやれという調子で呟く。
子どもっぽい人に惹かれるのは血筋かしら、と指で口許を隠すスミレは、ひとり思案に耽った。
Contiuna.